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ホーム >> 祇園のまち >> 発展過程

昔は、現在の住居表示で言えば、長束・長束西・山本・山本新町・祇園・西原・東原の地域をさして祇園町と言っていました。


明治時代以前

縄文時代の安佐南地区は、すでに狩猟などの生活が営まれる場でした。また、弥生時代になると農耕生活が始められ、農耕集落が形成されるようになりました。
この農業共同体は、周辺共同体との対立や抗争の中で階級分化が進み、やがては政治的領域体をつくり、大化改新以降、徐々に中央集権的支配に組み込まれていきます。
そして、この中央集権的支配の実施に必須の要件として、地方へ伸びる主要官道の整備が進められ、その一つである山陽道の駅家として、伴部(沼田)と大町(安古市)が機能していました。
この山陽道は、後に開通される石州街道及び、上古より交通の重要な役割を果たしていた大田川とともに、安佐南地域の経済基盤を支える重要幹線でした。
その後、安佐南地域は武田、毛利、福島、浅野諸氏の支配下で、国家的社会経済秩序に組み込まれていきます。
広島市域が、城下町として発展するに伴って、近郊の農村では、商品作物の栽培が発達しました。とりわけ、当地域一帯は、太田川の舟運の便を得て、一大供給地としての地位を築くこととなり、農業を基盤産業として当地域は発展していきました。そして、八木村や緑井村などを中心としての麻の栽培は、江戸時代、当地域の花形産業になり、労働力供給にもなりました。
また、商業についても、鎌倉後期から南北朝を経て、室町時代には、原の八日市、山本の八町(いずれも祇園)、古市(安古市)など、多くの市場ができて徐々に活発化していきます。



明治時代以降

明治以降、当地域は太田川下流のわずか10km内外に渦巻く好立地性と、交通の発達(県道安佐・安古市線、県道祇園・府中線、鉄道可部線)を背景に特色を現してきます。商品作物栽培の中心であった麻は、古市地区を集散地として、明治から大正期にかけて黄金期を迎えました。そして、明治初期より、少しずつ始められた養蚕も盛んになり、原や長束などの新開地にも桑園が広がります。また、蔬菜の栽培が急速に発展し、蔬菜供給地としての地域的特性を強めていきます。
さらに、大正以前は、農業生産による手工業的なもの以外はなかった工業も、広島の軍事拠点として重要度が高まるなか、中国醤油鰍はじめ、近代的工場が次々と建設されるなど、産業構造の変化を示すまでになりました。
商業も大正の時代になると、各地に農業のかたわら、商売を行う者が出るなど活性化していきました。とりわけ、祇園長束の町筋(旧国道)には、早くから商店が軒を並べ、近在の中心地として買い物客を集めていました。
こうしたなか、明治21年の市制・町村制の交付とともに合併・発足した当地域各町村のうち、祇園町、長束村、山本村、原村の4町村は、昭和18年にいち早く祇園町としての出発をすることとなります。



戦後

昭和20年の終戦によって、日本の古い社会秩序は崩壊し、新しい民主化の動きが台頭してきます。行政面においても、昭和21年の第一次地方制度についで、翌22年には地方自治法が公布され、新たな歩みを始めることとなります。
昭和28年の町村合併促進法を契機に、先に合併を終えた祇園町を除くその他の町村も一斉に合併します。これで、伴村・戸山村は沼田町へ、安村・古市町は安古市町へ、川内村・八木村・緑井村は佐東町へと、昭和30年に現在の安佐南区各町が誕生しました。終戦後の当地域に大きな影響を与えたのは、自動車交通への依存が急速に高まるなか、着手・完工された国道54号線の開通でした。これは、新しい市街地の形成を実現するとともに、広島市との一体性の高まりと都市化の進展を促進するもので、安佐南地域は、広島市のベッドタウンとしての性格を強め、急激に人口が増加していきました。そして、これと前後し、大規模な宅地造成がいたるところで進められるようになりました。さらに、人口の増加とともに商業機能も充実していき、また、文教施設や諸行政施設の整備など都市機能が高まっていきます。

こうしたなか、当地域は広島広域都市圏構想に組み込まれ、昭和46年に沼田町、47年に祇園町、48年に安古市町・佐東町が広島市に編入されました。これによって、行政にも一体化が進み、55年には全国で10番目の政令指定都市移行に伴い、広島市安佐南区となりました。そして60年2月、住居表示制度実施により祇園町は祇園○丁目、長束○丁目、長束西○丁目、山本○丁目、西原○丁目、東原○丁目と表示されることになり祇園町という町名は一部を除いて消滅しました。

昭和40年代からの急激な宅地開発による人口の急増に伴い、昭和50年代には県道広島豊平線(通称安川通り)・国道54号線の深刻な交通問題が生じてきました。その中、昭和63年には山陽自動車道の広島インターチェンジが供用開始され、ますます国道54号線の慢性的な交通渋滞が深刻化していきました。

こうした地域の交通問題を抜本的に解消し、さらに、広島都市圏の交通体系を高度で効率的なものにするため、また平成6年第12回アジア競技大会の開催に合わせ地域の交通需要に適応した新しい軌道系の公共交通機関を導入することとし、新交通システムのアストラムラインが平成6年8月20日から運行され、その下を祇園新道が開通し、朝夕の渋滞の緩和がなされました。それに伴い祇園新道沿線の西原・東原地区にマンション等が新築され、新たな商業地域が出現してきました。

そして平成12年から山本地区の火山山麓に2,300区画を超す大規模団地の造成がはじまり、新しい街が誕生しようとしています。



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